30代休職女の日々

皆さんの「自分の幸せ」を見つかることを祈ります

次もあると思えば良いのに。

人と会う口実に食事をよく使われる。

よほどのコースで無い限り、来店から90分くらいあれば一通りの話は終わるものだと思っている。

私の知り合いにランチに一緒に行って、大体2時間くらい会って、解散した後、次の約束をした時に「この日のために仕事を休んだ」とか「次の予定は入れてないよ」という人が居たりする。

大変光栄だし、喜ばしいことなのだが、このプレッシャーがあんまり好きじゃない。それと同時に相手は前回のランチがとても楽しかったのだろうな、とも思った。

でも、多分これはきっと前回の食事会が2時間で終わったから楽しかった要素の一つだろう。

相手が楽しく感じたのは互いにプレッシャーが無かったから。「次の予定を入れていないよ」と言われるとゆるい感じで解散がしにくくなる。

食事会を終える条件は二つ。互いの食事が終わっており、顔を合わせて話すことも大体終わっていること。

だけど「この日のために休んだ」など言われると食事会を終える条件の二つというなんとなくの緩いルールが崩れる。「顔を合わせて話すことを気を張って探さないといけない」

これが結構つらい。

 

因みに私も今まで生きてきた中で逆にプレッシャーをかけてしまう側になったことはあっただろうな、とも思う。そんな時の自分に言えることと言えば「次もあるから」って思うようになれば良い。

次会う時の段取りとか、準備とかが面倒なのもわかるが、その段取りや準備も含めて楽しいと思ったもん勝ちなんだろうな。

 

自分を知るって地味

やけくそみたいにたくさん食べる日がたまにある。頻度はまちまちで、週に1回だったり、3日間連続だったり、わからなかった。

食べて苦しくなった時は「頭がおかしいくらい食べたな」と首をかしげる。ご飯三人前を一食で食べたりする。お腹がいっぱいでも詰め込みたい衝動があった。

 

不安を解消してくれるロフラゼプ酸エチル錠という薬を処方されているのだが、前日の夜にその飲み方の条件によって、翌日の朝~夕までの体調が違うことがここ最近気づいた。

私の場合、ロフラゼプ酸エチル錠 を半錠(直径5mm程度の小さな薬を二つに割る)、お酒を飲んでいない状態で眠る30分ほど前に飲んでおく(時間はさほどきっちりしていなければ大丈夫)と、翌日やけくそみたいに食べないことがわかった。

因みにお酒を飲んで半錠飲むと朝起きられない(量にもよるが)

 

頭が痛いとか、お腹が痛いとかあからさまな不快感があれば対処法がわかるのだが、やけくそみたいに食べまくる(=体がSOSサイン)というのはなかなか気づけなかった。

因みに、その薬を1錠飲むと、昼前くらい(AM9:00前後だが)に急にベッドで休みたくなる。(おそらく強いのだと思う)ぶっ飛んで寝たいときは前日のうちに1錠まるっと飲んでおくのも良いかもしれない。

 

これと似た話で、知り合いが連日お腹の調子がずっと悪い日々が続いた、というのを思い出す。この場合大抵は前日に食べたものを思い出すのが主流だと思うが、彼の場合は1ヵ月くらい経ってからウォーターサーバーを取り入れたからと気づいたらしい。

水が悪いとかでは無くてキンキンに冷えた水を飲んでいたせいだとか。

彼は後になって、少しぬるめの水にして飲むようにすることで解消したようだ。

 

これまで臭い物に蓋をするというか、「アレ?オカシイ?」と思っても気づかないフリをすることが多くあったが、自分を考えることを怠慢しているだけだと思う。

友人が「最近よく寝れなくて…」と言っていると「枕変えた?」「午後にコーヒーとか飲んでる?カフェインは良くないよ」とかYES・NOで答えられる質問をして原因を推測するのだが、自問自答はぶっちゃけメンドイ。勉強の復習をさせられている感覚だ。

 

自分の「アレ?オカシイ?いつもと違くない?」と思ったら復習をしてみると良いかもしれない。案外、時間がかかるので、焦らず自分のペースで。

 

 

誰もが誰かに認められたい欲求が多少なりともある世界

目が四つあれば良いのにとよく思う。

InstagramやXに旅の写真を載せないのは自分が楽しめたら良いからだ。他に見せるためでは無いから。”(ナマケモノ哲学/ジェニファー・マッカトニーさん)

 

旅先や素敵な料理をいただくときについ写真を撮る。料理の写真の時は目は二つのままで良いのだが、旅先で船に乗ったり電車の車窓から景色を見るときに思う。

つい、スマホで動画や写真を撮るのにいっぱいになってしまう。レンズ越しに景色を見る羽目になる。

本来は感じる空気とか、瞬きしている間に飛んでいく鳥たち、さわやかな香りとか。目や鼻や耳に同時に入り込んでくる贅沢な情報を感じるのが素晴らしいことなのに。

 

そして、私の目はどちらかと言えばスマホ担当になりがちだと思う。

Instagramなどに投稿することもあるが、ほぼ大半が幾年か経ったあとに振り返ったりするためであることが多い。

上記の文章を読んで、もう少しリアルの景色を楽しむことを意識しようと思った。

 

InstagramやXにキラキラした世界を投稿する心理は、子供の時に「バッタを持って帰ってお父さんに見せよう」「おりがみで折った鶴を持って帰ってお母さんに見せよう」の心理がそのまま発達したものに近い気がする。

幼い頃は自分を取り巻く世界が違うから、家族から褒められる(=いいね)をもらうだけでも十分に嬉しかった。

そうして大人になって、SNSを知って、不特定多数の人から褒められたくなる心理(=いいねの数にこだわる)

心理学を勉強していないので、私の思った事象や感情に名前があるのかもしれない。

 

SNSは毒だなと、最近思っているうちの一つのお話です。

選ぶ側と選ばれる側の違いを知った小学生時代

小学生時代は、男女混合で体育の授業をする。

時期によって体育館で行ったりグラウンドで行ったり色々なスポーツをさせられるが、グラウンドでサッカーをする時の、小学校2年生くらいの時のシチュエーションがまだ忘れられない。

 

サッカーをするには1つのクラスの中で2チーム作らなくてはいけない。

各チームにサッカーが上手な男子1人がリーダーとなり、そのリーダーは順番に自分のチームに誰を入れていくか決めていく。

当たり前だが、リーダーの子はなるべくサッカーが上手い子や自身と馬の合う子を選んでいく。

AチームリーダーのA君は、C君を選ぶ。

次にBチームのリーダーのB君は、D君を選ぶ。

A君はC君と相談して、E君を選ぶ。

B君はD君と相談してF君を選ぶ。

必然的に、やっぱりサッカーとなると活発な男の子が先に売れて、次は活発な女の子が売れる。

次第に残されるのはそのほかの女の子や、普段大人しい地味な男の子。

 

私はもちろん最後のほうに選ばれた。私を含めて3~4人くらい残っていただろうか。

ここまでくると、選択する側も残された私たちを見て「うーん」とか唸っていた気がする。「どれを選んでも同じ感」があるだろうなと、小学生の自分でも肌で感じていた。

 

一番最後には残らなかった!という安心感はあった。最後まで残された子を私は覚えていないが。

サッカーが始まって、私は俊敏な動きもできないし、ボールを取ることもできないのにチーム貢献をしようとして一生懸命走ったりもした。まあ、うまくいくわけもなく。私の足にボールが触れたのは多分1回くらいだったと思う。ドリブルなんてできっこなかった。

 

そのうち「あっ、邪魔しない方が良いかも」と思って隅っこの、草が生えているところでしゃがんでサッカーを遠くから見ていたりもした。どちらが勝ったかよくわからないまま、ゲームは終わった。

 

AくんやBくんに対してというよりかは、チーム編成の方法を決めた当時の担任の先生がは、両方のチームの力がなるべく平等になるような方法を考案したのだろう。

人は自分で選択したものには納得しやすいから。そして、選べることは幸せに近いと思う。

サッカーは苦手だから、この時は仕方がなかった。

 

"選ばれる側"じゃなくて"選ぶ側"になれるような自分の得意や好きを見つけていきたい。

保育園の運動会の練習様子を見て思うこと

今住んでいるアパートの真横が保育園だ。

これから秋に向けて運動会の練習をしていて、その音を聞いたり様子を見るのが最近の私の日課だ。

年少、年中、年長の3グループに分かれてそれぞれパフォーマンスの練習をしている。ようだ。

 

保育士さんたちはあちこち好きなことをする子供たちをなんとか揃えて、集めて、ダンスをするなら同じ動きをするように指示をしたり、掛け声も「えいやー」とか「りんご組!みかん組!」とか決めているようだ。

今日聞こえた声で、保育士さんが「お母さんたちにカッイイ姿を見せましょうね」と子供たちに言っていた。

並んでいる子供たちはしゃがむと砂遊びをするらしく、「砂遊びしていると目立ちます、かっこいい姿見せるためにしっかりしましょう」とも言っていた。

 

カッコイイ姿を見せないといけないという気持ちがここらで刷り込まれていくのだなと思う。(あと、お父さんというワードが出てこないのがジワった)

”目立ちます”という表現も不思議だ。出る杭は打たれるという黙認されている社会の仕組みをすでに伝えているのだろうか。目立つ=悪いの種が植え付けられなければ良いなと思った。

そのうち小学生になって、家族にカッコイイ姿を見せるならば、いじめられていますとかSOSサインなんて出せなくなる。

家庭内でSOSサインを出せる子が増えてほしい。

 

保育士さんを批判しているわけでは無い。子供たちを輝かせないといけないし、放任しておくといざ本番の運動会で「ウチの子が活躍していない」とか親から言われたりするのだろうな。

運動会は子供の身体的能力向上のため、災害があった時に身を守るため、集団行動の重要性を高めるためとか。調べると色々出てくる。

運動会の始まりを調べると明治7年の共闘遊戯会というものが始まりらしいが、この令和の時代、もはや「保護者のため」という色が強いように思う。

 

パフォーマーである子供たち、それを見て成長に涙ぐむ保護者という感じ。

(私もきっと自身に子供を持ったとしたら、成長に涙ぐむとは思う。)

 

「運動会」よりも、「昨日の自分を超える能力」を子供の時から身に着けた方がよっぽど良いと思う。

頻繁に走って、都度"その子だけの成長記録表"というものを作って、昨日よりも早く走れたとか、長く走れとか、高く跳べたとか。

そうすると自分の強みがわかるのと、必要以上に比較をしてしまったりしにくくなるんじゃないかな。

 

 

 

働いていないうちに献血行ってみた。

先日、人生初の献血に挑戦してみた。

 

平日に働いていなかったら、社会から取り残されて居る感がある。

多くの人はこれをチャンスだとか、今のうちに何をするかとか、いろいろ思いつくんだろうな…

借金して起業する勇気も無ければ何かをコツコツ続けてきたものが見つからない。

 

そうか、とりあえず献血をしてみよう。

 

そんな感じで挑戦してみることに。

いろいろ調べてみるとどうやら私が行こうとしている近いところは事前予約が要るらしく、献血のアプリをダウンロードして予約をしてみた。

 

献血には2種類ある。

①全血(すべての血液を寄付する)

②成分(血小板や血漿のみ寄付し、赤血球は再び体に戻してもらうもの)

 

②の成分献血の方が体に負担が少ないというものを見た。デメリットは90分ほど時間がかかるらしい。

成分献血で予約をした。仕事をしていない私は時間がたっぷりあるので平気だ。む

しろ、この暑い時期に涼しい空間に90分間居られるならラッキーである。駅周辺で、車で行っても駐車場代は自己負担0円らしく、これは行くしかない。

 

当日、車で献血場に向かって献血の受付にて駐車券を出すとそこの駐車場は提携していないので別のところに停めるよう言われた。

 

泣く泣く車を移動させることにしたが、一時的に駐車したので400円取られた。平日20分ほど停めただけで400円。この時点で結構イラっとした。次は絶対に停めない(次も来ようとしている時点でまあまあ偉いなと思う)

 

気を取り直して受付けをして、タブレットで問診を受ける。

歯の治療を最後にしたのはいつなのか、海外に住んだ経験はあるか、これまでの病歴などなど。

決して難しいものでは無く、あとは体重測定と血圧測定後、左手の中指の先にチクッと細い細い針で採血され、血液型とヘモグロビン濃度を測定。

 

大きな異常は無いが、成分献血は辞めるよう言われた。代わりに全血200mlを受けることに。

理由としては、

血管が絶秒に細いから、血を戻すときに大変

初めての献血なのと体重が微妙なラインなのでとりあえず全血200mlをしてくれ

この二点。

 

プロに言われたなら、そうせざるを得なかった。

実は、5年くらいまえに一度、同じように成分献血を受けに言ったらいかにもベテランのおばちゃんが「アタシ、この子の血管に血を戻す自信ないわ~」と他の看護師さんに言っているのを聞いて、怖くなってやめたことがある。

今回、再チャレンジしたのは

「最近太ったし、看護師も変わればワンチャン成分献血イケるんとちゃうん?」と思いついたからだった。

しかし今回も成分献血はダメだった。

200mlの血を寄付している間に付きっきりしてくれ看護師さんに色々訪ねた。

「血管で太くならんのですか?ここ数年で太ったんですけど」

 

看護師「もって生まれたものなので太くなりませんね…」

 

成分献血は体に負担がすくないと聞いたのですが」

 

看護師「初めての人が90分も血液を出し入れするのはちょっと辛いと思うので…」

 

「私の血管は成分献血よりも全血が良いですか?」

 

看護師「そうですね、前日に食べすぎちゃった時とかに、全血に来てください」

 

この会話の間も看護師はたくさん謝罪していた。善意を無碍にした感があったんだろうが、私は適材適所を知りたかっただけなのでそんなに謝らなくて良いのにと思った。

 

これから献血を考えている人は、ひとまず予約をして、実際に看護師さんに聞いてみると良い。

血管太くて取りやすい!という人はバンバン来てほしいらしい。

自分の肘の裏を見てみて欲しい。血管がまあまあ見えやすい男性の方は、是非検討してみていただきたい。

 

最後に、看護師さんは逆に私にたくさん、何度も質問してきたことがある

「どうして献血しようと思ったのですか?医療従事者の方はよく来られるのですが…。そういうお仕事していないのにどうしてですか?!」

 

まさかぽっかり空いている日常を涼しいクーラーの下で過ごしたいから、とは言えなかった。

 

帰りのコンビニで買ったコレ、久しぶりに飲んだけどおいしかった。

a.r10.to

休職してもうすぐ2ヵ月で思ったこと。

いきなり結論から言うと、老後の暮らしってどう過ごすか考えさせられるなと感じた。

 

私は今年の四月に転職して、七月二十五日に休職した女です。

今、31歳です。

休職した理由は色々ありますが、上司と合わなかったのと、この仕事をずっとしていくイメージが湧かなかったからです。

これを聞くと、甘ったれんなと言われるかもしれません。実際に上司も悪い人じゃなかった。

よくあるパワハラ、セクハラ、モラハラ、とかでは無く。残業もほぼ無い。

でも、ここに長く居るのが嫌だったんです。

みなさんの休職理由を見ると『そりゃあ大変だったね… 』と、思うような壮絶な内容が羅列されている中、私はそんな壮絶じゃありません。でも休職しました。私がなまくらなだけなんです。すみません。

日曜日の夜に、次の日のことを考えながら洗濯物を畳んでいるとなんだか涙が出てきたことがありました。恵まれているはずの私は何が悲しくて辛くて涙が出たのか、この気持ちを上手く言葉にするにはもう少し時間が必要だと思っております。

 

やんわり転職活動、つなぎのバイト、YouTube配信、note作成などしながらかれこれもう2ヶ月が経とうとしています。

 

思ったことを綴っていく、細く長く続けられるブログを目指していきます。

 

さて、本題にある休職して2ヶ月が経とうとしている中、日々の暮らしで思うのが、もしも定年を迎えて65歳からの人生、死ぬまでどう過ごすかを考えさせられます。

人生ひまつぶしとは本当だなと実感させられております。

図書館で本を借りて読んだり、月契約のジムへ行って過ごしたり。この時間って、どうしたら自分自身のアップデートになるんだろうと。

なるべく友達と会って話はしてみたいけれど、そうなるとカフェ代とかかかる。

だったら本当は公園の日陰でコンビニで買ったお茶を飲みながら話をしたりしたい。

それを提案するほどの度胸の無い私。

十代の頃なら平気で出来たそれも、大人になると怖気づいたり、相手の都合を必要以上に思案してしまい、できなくなるものだ。

 

大人はなんでも出来る、そう思い違いをしながら過ごした学生時代の私に言うならば

 

「人によります」

 

といったところ。

だけど、肝心なのはそれを悲観するんじゃなくて、そのくらいヒトの事を考えられるようになったんだね。って。心のどこかにまだ住みついている子供の心の私に言ってあげたいかな。

 

だから、死に向かいながら、あれこれ試してみながら「私はどうやってお婆ちゃんを過ごす?」を考えていきたい。